最終更新日:2026年9月10日

伊達直人さんからの投稿です。
6月の市長定例会見の場で鴨田市長は、ウズベキスタンの首都タシケントにある[ナボイ劇場]を、シベリア抑留で連行された日本人が建設したと発言していますが、これは事実誤認も甚だしいです。

この[ナボイ劇場]は、大地震に際しても倒壊することなく無傷だったことで広く知られています。
私は歴史書や文献を読み込み、[ナボイ劇場]について調べてみました。

【ナボイ劇場 建設の経緯】

※1939年,,,,建設開始(設計者 A,シチューセフ氏)
※1940年,,,,基礎工事 完成
※1942年
       I
※1944年,,,,戦争の影響で中止
※1945年,,,,10/30 日本人抑留者(240人) 第386収容所へ連行される
  I
※1947年(10月),,,,のべ450人あまりの日本人抑留者とウズベキスタン人とで『土木,配管,彫刻,外壁』など内外の[仕上げ作業]に従事して完成する

つまり日本人抑留者は、[ナボイ劇場]建設の最終段階において2年間貢献したに過ぎず、設計から完成までの全工程を担ったわけではないということです。
鴨田市長が公の場で発言している【日本人抑留者が建てた】という話は、事実とは異なります。

私は旧ソ連軍によって強制連行された日本人抑留者の歴史を調べて、このウズベキスタンで800人以上の日本人が[飢え,寒さ,重労働]の3重苦の中で命を落とした事実を知り、深い悲しみに襲われました。
抑留の歴史については、戦後80年が過ぎた今でさえ正確な実態がわかっていません。
未だに遺骨すら戻っていないのが現状です。

鴨田市長は未来志向のもと、ウズベキスタンのリシタン地区と姉妹都市 提携をしました。
しかし、行政が学生語り部たち(6名)をウズベキスタンへ訪問させて、日本人抑留者が建てたと“伝説的“に語り継がれている[ナボイ劇場]を見学させる一方で、『寒い!』『お腹がすいた!』と苦しみ叫んでいた抑留者たちの真の声に耳を傾けることなく、形式的に[日本人墓地]へ献花させるだけで、果たして正しい史実の継承が子どもたちへと繋がっていくのでしょうか。

今ある平和も抑留者の方々の犠牲の上に成り立つものと、深く心に刻む必要があります。
戦争や抑留の歴史、そして無念にも異国の地で亡くなった方々から、私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。
また舞鶴市としても引揚者を受け入れた街として、[舞鶴引揚記念館]の役割を問い直す必要があると思っています。

10/7の[引揚の日]には、毎年“史実の継承“や“恒久平和“を発信する行事が開催されているようですが、鴨田市長自らが【間違った歴史認識】を持っている以上、次世代への正しい史実の継承などできるわけがありません。
10月7日の[引揚の日]は、“抑留3重苦“(飢え,寒さ,重労働)を強いられた方々に対して想いを馳せ、無念にも異国の地で犠牲になられた全ての方々を[追悼する日]にすることこそが、舞鶴市の果たすべき役割なのではないのでしょうか。

遺族の皆さまは、“抑留“の実態解明を強く要望されています。
“抑留“の歴史的検証や遺骨問題を蔑ろにして、姉妹都市提携を進める舞鶴市。
舞鶴市は、異国の地で儚くも散っていった方々を歴史の闇に葬り去ろうとしているではないか!

\ 最新情報をチェック /