
旧ソ連は、バルト海沿岸から太平洋まで広がる、世界最大級の国土を持つ国家でした。
しかし、その広大な領土を維持し、開発し、工業化するためには、膨大な労働力が必要でした。
特にシベリア、ソ連極東、中央アジアなどでは、鉄道、道路、鉱山、森林、工場、発電所、住宅、公共施設などの整備が進められていました。
さらに、第二次世界大戦でソ連自身も甚大な人的・物的被害を受け、戦後は深刻な労働力不足に直面しました。
その不足を補うため、ソ連は通常の労働者だけでなく、
- 国内の囚人や政治犯
- 強制移住させられた少数民族
- ドイツをはじめとする枢軸国側の捕虜
- 日本人抑留者
など、自由を制限された人々を大規模な労働力として動員しました。
つまり、ソ連の国土開発や戦後復興は、自由な労働だけで支えられたものではありません。
国家によって自由を奪われた多くの人々が、労働計画の中へ組み込まれていたのです。
日本人約57万5,000人が旧ソ連地域などへ抑留された
日本人抑留者も、この巨大な強制労働の仕組みの中へ組み込まれました。
厚生労働省によると、終戦前後に旧満州、樺太、千島などから旧ソ連地域やモンゴルへ強制抑留された日本人は、約57万5,000人と推計されています。
そのうち、
| 区分 | 人数 |
|---|---|
| 旧ソ連地域などへ抑留された人 | 約57万5,000人 |
| 日本へ帰還した人 | 約47万3,000人 |
| 抑留中に死亡したと認められる人 | 約5万5,000人 |
| 病弱などのため旧満州・北朝鮮へ送られた人など | 約4万7,000人 |
とされています。
約57万5,000人のうち、約5万5,000人が亡くなったということは、単純計算でおよそ10人に1人が帰国できなかったことになります。
一般に「シベリア抑留」と呼ばれていますが、実際の抑留先はシベリアだけではありません。
日本人は、ソ連極東、中央アジア、ヨーロッパ側の地域など、旧ソ連各地の収容所や労働現場へ配置されました。
日本人の多くは、旧満州などで武装解除された後、日本へ帰国できると考えていました。
しかし実際には、本人の意思とは関係なくソ連領内へ移送され、各地域の労働需要に応じて振り分けられました。
流れを簡単に整理すると、
武装解除・拘束
↓
本人の意思に反してソ連領内へ移送
↓
シベリア、極東、中央アジアなどへ配置
↓
鉱山、森林伐採、鉄道、港湾、工場、住宅、公共施設などで強制労働
というものでした。
日本人だけが対象ではなかった
このような抑留政策は、日本人だけを対象にしたものではありません。
舞鶴引揚記念館も、ソ連が戦後復興の労働力不足を補うため、旧敵国側の軍人や民間人を抑留し、日本と同じ敗戦国だったドイツなどに対しても同様の政策を行ったと説明しています。
ドイツ連邦公文書館によると、ソ連の管理下に置かれたドイツ人捕虜は、約320万人から360万人とされています。
そのうち、帰国できた生存者は約200万人と説明されています。
ただし、ドイツ人捕虜の死亡者数については、資料や集計方法によって大きな差があります。
旧ソ連側の記録では、ソ連の収容所で死亡したドイツ国籍の捕虜は約35万7,000人とされています。
一方、西ドイツ政府が設置した調査委員会は、ソ連に捕らえられたドイツ軍人約306万人のうち、約109万人が抑留中に死亡したと推計しました。
つまり、ドイツ人捕虜については、
約320万~360万人がソ連の管理下に置かれ、死亡者は約36万人から100万人を超える推計まで幅がある
というのが実情です。
人数に大きな差があるのは、
- 戦場で行方不明になった人
- 捕虜収容所へ到着する前に死亡した人
- 捕虜登録されなかった人
- ドイツ国籍以外のドイツ軍所属者
- 戦後も消息が確認できなかった人
を、どこまで「ソ連抑留中の死亡者」に含めるかが資料ごとに異なるためです。
したがって、ドイツ人については一つの数字だけを断定するのではなく、複数の推計があることを示す必要があります。
それでも、数百万人規模のドイツ人捕虜がソ連へ収容され、多くが労働力として利用されたこと自体は明らかです。
囚人や少数民族も開発へ動員された
ソ連では、外国人捕虜や日本人抑留者が送り込まれる以前から、国内の囚人や政治犯を労働力として利用する仕組みが存在していました。
一般に「グラーグ」と呼ばれる強制収容所の体系です。
収容者は、シベリアや極東をはじめとする各地で、
- 鉱山開発
- 森林伐採
- 鉄道建設
- 運河建設
- 道路整備
- 工場建設
- 都市建設
などに投入されました。
また、スターリン体制下では、チェチェン人、クリミア・タタール人、沿ヴォルガ・ドイツ人など、複数の民族集団が集団的に強制移住させられました。
強制移住には政治的な統制や民族集団への処罰という目的がありましたが、移住先で労働力として使われた側面もあります。
ソ連では、
囚人
政治犯
強制移住させられた少数民族
外国人捕虜
日本人抑留者
が、それぞれ異なる法的立場に置かれながらも、国家の開発・復興計画を支える労働力として利用されていました。
日本人抑留は、こうしたソ連の大規模な労働動員政策の中に位置付けて見る必要があります。
なぜウズベキスタンへ送られたのか
日本人抑留者の多くは、シベリアやソ連極東へ送られました。
しかし、全員が寒冷地へ送られたわけではありません。
ソ連政府は、日本人をソ連全域で利用できる労働力として管理し、各地域の労働需要に応じて計画的に配置しました。
その一部が、中央アジアのウズベキスタンへ送られたのです。
ウズベキスタンは極東ではありません。
中央アジアに位置し、当時はソビエト連邦を構成する共和国の一つでした。
ウズベキスタンでも、都市整備、工業化、発電施設、工場、学校、住宅、道路、文化施設などの建設が進められており、多くの労働力が必要とされていました。
その労働力を補うため、約2万5,000人の日本人抑留者が送り込まれたとされています。
つまり、
シベリアで日本人が余ったため、後からウズベキスタンへ回された
という単純な話ではありません。
より正確には、
ソ連が確保した日本人を各地の労働需要に応じて配分し、その一部を中央アジアの建設事業へ投入した
ということです。
日本人は国際協力のために渡ったのではない
ウズベキスタンへ送られた日本人は、劇場、学校、工場、発電施設、道路、住宅などの建設に従事させられました。
有名なナヴォイ劇場も、その一例です。
舞鶴市や舞鶴引揚記念館の資料では、日本人抑留者がウズベキスタンの国づくりに貢献したと紹介されています。
日本人が高い技術力を発揮し、過酷な状況でも手を抜かず、立派な建物を残したことは称賛されるべきでしょう。
しかし、彼らは国際協力のために招かれた技術者ではありません。
自ら望んでウズベキスタンへ渡ったわけでもありません。
帰国の自由を奪われ、ソ連政府の労働計画に従って配置された抑留者です。
したがって、
日本人がウズベキスタンの発展に協力した
とだけ説明するのは、歴史の重要な部分を欠いています。
より正確には、
旧ソ連によって強制移送された日本人抑留者が、中央アジアの都市整備や戦後復興を支える労働力として投入された
という歴史です。
「貴重な労働力」として管理された可能性
ソ連にとって、日本人抑留者は貴重な労働力でした。
抑留者の中には、建築、土木、機械、電気などの技能を持った人も多く、戦後復興を進めるソ連にとって利用価値の高い人材でした。
食料の配給や最低限の生活環境が用意された場合でも、それがすべて純粋な人道的配慮だったとは限りません。
労働力を維持し、継続的に働かせるための労務管理という側面があった可能性も考えられます。
ただし、個別の待遇や施策については、具体的な記録がなければ断定できません。
少なくとも明確なのは、日本人抑留者が自由な労働者ではなく、国家によって管理され、配置され、労働を課された人々だったということです。
そして、その管理は人命を十分に守るものではありませんでした。
日本人全体では約5万5,000人が抑留中に死亡し、ウズベキスタンだけでも812人が亡くなっています。
約2万5,000人が送られ、812人が死亡したということは、ウズベキスタンへ送られた人のおよそ3%が帰国できなかった計算になります。
現地住民の善意と、国家の強制労働は分けて考える
一方で、現地住民が日本人抑留者へパンや果物を差し入れたり、日本人墓地を守ったりしてきた行動は、国家による強制労働とは分けて考えなければなりません。
ソ連政府が日本人を労働力として利用したことと、現地住民が目の前の日本人を助けたことは別の問題です。
現地住民の人道的な行動や、日本人抑留者との間に生まれた友情は、正当に評価されるべきです。
しかし、その友情があったからといって、強制移送や強制労働の不当性が消えるわけではありません。
国家による抑留は不当だった。
一方、現地住民の中には日本人を助けた人もいた。
この二つの事実は両立します。
称賛すべきなのは抑留者と現地住民である
ナヴォイ劇場など、日本人抑留者が建設に関わった建物が現在も残り、その技術力や勤勉さが高く評価されていることは事実です。
しかし、立派な建物が残ったからといって、強制労働が正当化されるわけではありません。
称賛されるべきなのは、過酷な状況でも誠実な仕事を残した日本人抑留者です。
そして、危険を顧みず食料を差し入れ、日本人墓地を守ってきた現地住民です。
国家が人間を拘束し、遠い土地へ移送し、労働力として配置した制度そのものではありません。
抑留は「交流」ではない
舞鶴市や引揚記念館の資料では、
- 日本人は勤勉だった
- 礼儀正しかった
- 立派な建物を残した
- 現地住民から尊敬された
- 親日感情につながった
- 現在の交流が生まれた
という物語が強く紹介されています。
これらも歴史の一部です。
しかし、その前提には、
- 日ソ中立条約が無視されて対日参戦されたこと
- 終戦後に日本人が強制移送されたこと
- 帰国の自由を奪われたこと
- ソ連の労働力不足を補うために利用されたこと
- 過酷な環境で強制労働に従事させられたこと
- 日本人全体で約5万5,000人が死亡したこと
- ウズベキスタンで812人が死亡したこと
があります。
この部分を弱く扱い、勤勉、名誉、友情、親日、交流だけを強調すれば、強制抑留という人権侵害が、美しい国際交流の物語へ置き換えられてしまいます。
しかし、抑留は交流ではありません。
自由を奪われた人々を、国家の都合で遠い土地へ移送し、労働力として利用した歴史です。
友情の物語を伝えるのであれば、その前に、
彼らはなぜウズベキスタンにいたのか
誰の命令で連れてこられたのか
どのような立場で働かされたのか
日本人全体で何人が抑留され、何人が亡くなったのか
ウズベキスタンでは何人が亡くなったのか
という根本的な事実を伝える必要があります。
日本人約57万5,000人が抑留され、約5万5,000人が亡くなった。
ドイツ人も数百万人規模でソ連に収容され、多数が帰国できなかった。
その巨大な強制労働の仕組みの中で、約2万5,000人の日本人がウズベキスタンへ送られ、812人が亡くなった。
この全体像を伝えたうえで、初めて現在の友好や交流を語るべきです。
それが、亡くなった方々と、帰国を待ち続けた家族に対する最低限の礼儀ではないでしょうか。

