ウズベキスタンと舞鶴市の交流を調べていく中で、舞鶴引揚記念館のホームページに掲載されている3つの資料が見つかりました。

  • 「海外引揚がつなぐウズベキスタンと舞鶴の縁」

この資料を読んでいくと、日本人としては納得しにくい事実が浮かび上がってきました。

それは、旧ソ連による日本人抑留の悲惨さよりも、

日本人の勤勉さ
現地住民との友情
日本人が残した名誉
現在の親日感情
ウズベキスタンとの交流

という、明るく美しい物語が強く前面に出されていることです。

私は、ウズベキスタンの人々との交流や、現地住民が日本人抑留者を助けた事実を否定するつもりはありません。

しかし、強制抑留という重大な人権侵害を伝える資料として、本当にこの構成でよいのでしょうか。

ソ連は日ソ中立条約を破って侵攻した

舞鶴市が作成した資料には、1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破り、満州や朝鮮半島、南樺太などへ侵攻したと記されています。

日本は8月15日にポツダム宣言を受け入れましたが、ソ連軍の侵攻は8月23日まで続きました。

その後、多くの日本人がシベリアや中央アジアなどへ送られ、数年から十数年にわたって抑留され、森林伐採、道路整備、建築などの強制労働を課されました。舞鶴市の資料も、過酷な労働や栄養失調、けがなどによって、多くの人が日本へ戻れないまま亡くなったと説明しています。(舞鶴市公式サイト)

この部分だけを見れば、強制抑留の不当性や悲惨さも説明されているように見えます。

しかし、資料全体を読み進めると、次第に重点が変わっていきます。

ウズベキスタンには約2万5,000人が送られた

資料によると、ウズベキスタンには約2万5,000人の日本人抑留者が送られました。

夏は40度、冬はマイナス20度にもなる厳しい環境の中で、抑留者は水力発電所や学校、劇場などの建設に従事させられました。

特に有名なのが、457人の日本人抑留者が建設に携わったナヴォイ劇場です。(舞鶴市公式サイト)

ここまでは、強制労働の事実を説明しています。

ところが、その後は、日本人抑留者がいかに勤勉で礼儀正しかったかという話が大きく展開されます。

「日本人のようになりなさい」という物語

資料には、収容所近くの住民が日本人抑留者へパンや果物を差し入れたところ、後日、手作りの木のおもちゃが置かれていたという話が紹介されています。

そして、現地の母親が子どもに、

日本人は勤勉で礼儀正しく、恩を忘れない。あなたも日本人のようになりなさい。

という趣旨の言葉を伝えたとされています。

また、ウズベキスタンのカリモフ前大統領についても、子どもの頃に日本人抑留者の働く姿を見て育ち、母親から日本人のように働く人間になりなさいと言われたという話が紹介されています。(舞鶴市公式サイト)

こうした話が事実であれば、現地住民と日本人抑留者との温かな交流として伝える価値はあります。

しかし、その一方で、彼らは自ら望んでウズベキスタンへ行ったわけではありません。

帰国の自由を奪われ、極めて少ない食事しか与えられず、労働成績が悪ければパンを減らされるような環境で強制労働に従事していたのです。(舞鶴引揚記念館)

この厳しい事実と、心温まる交流の話は、同じ重さで伝えられているでしょうか。

私は、友好の物語の方が強く印象に残る構成になっていると感じます。

「2人」は書かれているのに、「812人」は書かれていない

特に違和感を覚えるのが、死亡者数の扱いです。

舞鶴引揚記念館の記事には、ナヴォイ劇場の建設に携わった457人のうち、

2人が事故などによって現地で亡くなった

と具体的な数字が書かれています。(舞鶴引揚記念館)

ところが、厚生労働省が公表している、

ウズベキスタンで日本人812人が抑留中に亡くなった

という全体の死亡者数は、今回確認した3つの資料には記載されていません。

舞鶴市の資料では、「たくさんの方が亡くなった」という抽象的な表現にとどまっています。(舞鶴市公式サイト)

これは非常に重要な違いです。

「2人」という数字を具体的に示す一方で、「812人」という全体の犠牲者数を示さない。

資料を読んだ人には、

ナヴォイ劇場を建てた457人のうち455人が帰国し、2人が亡くなった

という印象が残ります。

しかし、ウズベキスタン全体では812人が亡くなっています。

2人の死も重い。

812人の死は、そのさらに大きな歴史的事実です。

なぜ、その数字が書かれていないのでしょうか。

13か所の墓地は書かれているが、何人が眠るかは書かれていない

舞鶴市の資料には、ウズベキスタン国内に日本人抑留者の墓地が13か所あることが紹介されています。

そして、カリモフ氏がソ連中央政府から墓地を1か所へまとめるよう命じられたものの、

ここに眠っているのは、国づくりに貢献した恩人たちである

として拒否し、現在も現地住民が墓地を守り、花を供えていると説明されています。(舞鶴市公式サイト)

現地の方々が墓地を守っていることは、感謝すべき事実です。

現在のウズベキスタン国民へ、旧ソ連政府の責任をそのまま負わせるべきではありません。

しかし、ここでも資料は、

日本人墓地が13か所ある

とは書いているものの、

ウズベキスタンで812人が亡くなった

とは書いていません。

墓地の存在は「恩返し」や友好の文脈で紹介されますが、そこに眠る犠牲者の全体像は示されていないのです。

「抑留者が残した名誉」という見出し

2つ目の記事には、

抑留者が残した名誉

という見出しがあります。

記事では、1966年にタシケントで大地震が起きた際、日本人抑留者が建設に関わったナヴォイ劇場などの建物が倒壊せず、避難所として多くの人を救ったと紹介されています。

そして、絶望的な抑留生活の中でも日本人は勤勉に働き、地震でも倒れない建物を造ることで、

自分たちの名誉を残そうとした

と説明しています。(舞鶴引揚記念館)

日本人抑留者が、過酷な状況でも誠実な仕事をしたことは、誇るべきことです。

しかし、「自分たちの名誉を残そうとした」という部分が、抑留者本人の証言に基づくものなのか、記念館側の解釈なのかは、この資料からは分かりません。

抑留者が懸命に働いた理由には、さまざまな事情があったはずです。

生きて帰るため。

仲間を守るため。

命令に逆らえなかったため。

粗末な仕事による事故を防ぐため。

日本人として手を抜きたくなかったため。

それを一つにまとめて、

名誉を残すために働いた

と説明するのは、少し物語化しすぎではないでしょうか。

強制労働の成果と、強制労働の不当性は別

ナヴォイ劇場が立派な建物であること。

日本人が建設した施設が現地で長く使われていること。

その働きがウズベキスタンの人々に尊敬されていること。

これらは事実として紹介してよいと思います。

しかし、その建物は、自由な契約のもとで日本人技術者が建設したものではありません。

日本人抑留者が、帰国の自由を奪われた状態で建設に従事させられたものです。

立派な建物が残ったからといって、強制労働そのものが正当化されるわけではありません。

抑留者の誠実さをたたえることと、抑留という制度を美しい物語へ置き換えることは、まったく別の問題です。

「抑留から交流へ」という構成

舞鶴引揚記念館の記事タイトルは、

抑留から交流へ!

となっています。

記事の構成も、

  1. 日本人が抑留された
  2. 過酷な状況でも勤勉に働いた
  3. 現地住民との交流が生まれた
  4. 日本人が尊敬された
  5. 現在の親日感情につながった
  6. 舞鶴市との交流へ発展した

という流れになっています。(舞鶴引揚記念館)

平和交流を紹介する物語としては、非常に分かりやすい構成です。

しかし、その過程で、

  • 条約を破った対日参戦
  • 強制移送
  • 長期抑留
  • 強制労働
  • 栄養失調や疾病
  • 812人の死亡

という重い歴史が、現在の友好へつながる前段階として処理されていないでしょうか。

「抑留があったから、今の交流がある」

という語り方を強調しすぎれば、抑留そのものまで交流を生んだきっかけとして肯定的に捉えられかねません。

しかし、抑留は交流事業ではありません。

国家によって自由を奪われた人々の悲劇です。

最後は交流する若者の写真で締めくくられる

PDF資料の最終ページは、

先人が築いた繋がりを次の世代に

という見出しで、舞鶴市とウズベキスタンの若者たちが交流する写真を掲載しています。

文章でも、日本人抑留者の行動によってウズベキスタンに親日感情が生まれ、舞鶴とウズベキスタンの縁が築かれたと説明しています。(舞鶴市公式サイト)

このページだけを見れば、平和交流の資料として非常に明るく、希望に満ちています。

しかし、その交流の出発点として扱われた日本人抑留者のうち、812人が帰国できないまま亡くなったことは、最後まで具体的に示されません。

交流する若者たちの笑顔で締めくくる前に、812人の名前と死にも向き合う必要があったのではないでしょうか。

戦争責任を問わないことと、事実を省略することは別

舞鶴引揚記念館は、特定の国や個人の戦争責任を追及することよりも、引き揚げと抑留の記憶を継承し、平和の尊さを伝えることを重視しているのだと思います。

私は、その方針そのものを否定するつもりはありません。

戦争責任の議論だけに偏れば、抑留者一人ひとりの体験が政治的対立の中に埋もれてしまう可能性もあります。

しかし、

戦争責任の是非を問わない

ことと、

何が起き、何人が亡くなったのかを伝えない

ことは別です。

812人という死亡者数を記載することは、誰かを断罪する行為ではありません。

厚生労働省が公表している歴史的事実を伝えるだけです。

その数字を出さず、勤勉、名誉、恩返し、親日、交流という言葉を重ねれば、結果として強制抑留の悲惨さが薄められてしまいます。

現地住民との友情まで否定してはいけない

一方で、注意しなければならない点もあります。

日本人を強制的に抑留した主体は、当時のソビエト連邦です。

現在のウズベキスタンは、1991年のソ連崩壊に伴って独立した国です。(舞鶴市公式サイト)

資料に記されているとおり、現地住民が日本人抑留者へ食料を差し入れ、日本人墓地を守ってきたのであれば、その行動は正当に評価すべきです。

現在のウズベキスタン国民を、旧ソ連政府と同一視するべきではありません。

だからこそ、資料には両方の事実が必要です。

旧ソ連による強制抑留は不当だった。
一方、現地住民の中には日本人を助け、墓地を守ってきた人もいた。

この二つは矛盾しません。

どちらか一方だけを強調するのではなく、両方を正確に伝えることが、本当の歴史継承ではないでしょうか。

私の意見

私は、平和交流や国際交流を否定するつもりはありません。

ウズベキスタンの人々と舞鶴市民が交流し、互いの文化を知ることには意味があります。

しかし、平和を伝えるために、過去を美しい物語へ作り替えてはいけません。

日本人抑留者が立派な建物を残した。

勤勉さが尊敬された。

現地住民との友情が生まれた。

墓地が大切に守られている。

そのすべてを伝えてよいと思います。

しかし同時に、

約2万5,000人が強制移送され、812人が帰国できないまま亡くなった。

この事実も、同じ大きさで伝えるべきです。

「2人」は書く。

「13か所の墓地」も書く。

「455人が帰国した」ことも書く。

それなのに、「812人が亡くなった」という数字は書かない。

これでは、資料を作る側が伝えたい物語に合わせて、都合の悪い数字を外しているのではないかという疑念を持たれても仕方がありません。

結論

舞鶴引揚記念館の資料には、旧ソ連による強制抑留の事実も記載されています。

したがって、完全に歴史を隠しているわけではありません。

しかし、資料全体の構成を見ると、

強制抑留の悲惨さよりも、
日本人の勤勉さ、名誉、現地住民との友情、親日感情、現在の交流

が強く印象に残る内容になっています。

そして、その中から、厚生労働省が公表している「812人の死亡」という最も重い数字が抜けています。

平和発信とは、悲惨な歴史を丸く収めることではありません。

何が起きたのか。

誰が自由を奪われたのか。

何人が亡くなったのか。

それを正確に伝えたうえで、二度と繰り返さないと考えることです。

舞鶴市と引揚記念館には、交流の美しい側面だけではなく、812人の死という重い事実も、同じ大きさで伝えていただきたい。

戦争責任を問わないことを理由に、強制抑留の被害まで美談に変えてはいけない。

私は、そう思います。

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