
伊達直人さんの投稿です。
1945年(昭和20年) 8月15日 正午、昭和天皇 自らが太平洋戦争の終結を国民に告げられました。
その後、旧満州(中国 東北部)や北朝鮮などで武装解除した日本兵や民間人、約58万人が旧ソ連によってシベリアなど各地にある収容所に強制連行されました。
しかも、“東京ダモイ“(東京に帰れる)と日本人を騙して、ソ連領内やモンゴルの各 捕虜収容所に移送したのです。
ウズベキスタンには、約2万5,000人の日本人が強制連行されたとのことです。
その理由としては、戦争で甚大な被害を受けたソ連が、戦後復興のため労働力不足を補う目的で日本人を利用したという訳です。
気温がマイナス30度を下回る過酷な環境下で、“森林伐採“や“鉄道建設“それに“鉱山労働“など、奴隷のように日本人は働かされました。
“極寒“と“飢え“その上 “劣悪な衛生状態“で、強制労働をさせらたのです。
抑留者の人々は、お互いのわずかな食料を分け合い、励まし合って生き抜いたとのことです。
しかし、残念なことに約6万人もの抑留者の方々が、日本の地を踏むことなく亡くなってしまいました。
抑留体験者でない私ですが、寒さ,飢え,風呂も入れずの生活は、まさに地獄絵図だったと思います。
姉妹都市 提携を結んだ フェルガナ州 リシタン地区も、日本人が抑留された地域です。
80年が過ぎた今も、日本に帰れない遺骨がこの地に眠っているのは確かです。
であるならば、このリシタン地区と姉妹都市提携を結ぶ前に、日本に帰れなかった“無念さ“や“悲しみ“に寄り添い、その魂を慰めて二度と悲劇を繰り返さない!という誓いを込めて『慰霊碑』を建立するのが、日本人としてのあるべき姿ではないでしょうか。
旧ソ連は戦争終結後、“日本に帰れる“と騙して拘束した日本人を、国際法を無視して劣悪な環境下で“強制労働“をさせました。
ウズベキスタンは、1991年まで旧ソ連を構成する共和国の一つでした。
であるならば、このリシタン地区の市長は舞鶴市民いや日本国民に対して、過去を反省してなぜ謝罪しないのでしょうか?
それなくして、姉妹都市の提携はあり得ないと私は思います。
また、この姉妹都市 提携は、鴨田市長がウズベキスタンに行って調印しました。
舞鶴市には引揚記念館があります。この記念館は、抑留者の史実を正しく次世代に継承して、二度と悲惨な戦争を繰り返してはいけない!といった“平和の尊さ“を世界へ発信する目的で建てられました。
であるならば、私は調印式を引揚記念館で行うべきだったと思います。
舞鶴引揚記念館は、全国からの寄付や関係者の支援を受けて開館した経緯があります。
ことしの4月には、建立運動に深く貢献された兵庫県 高砂市の田中 唯介(ゆいすけ)さん100歳も旅立たれました。
私は、姉妹都市 提携先の市長の謝罪なくして調印式はあり得ないと思っています。
その地には、抑留者の方々の“慰霊碑“もなくて何が姉妹都市ですか!
鴨田市長は平和ボケしているのでしょうか。
市役所の広報まいづるを発行している“広報 広聴課“に電話して、提携先の市長の謝罪文を広報まいづるに載せるよう依頼しましたが、帰ってきた言葉が“日本人も戦争中に非人道的な行為を行なったではないか!と拒否されました。
私は、市役所の職員も鴨田市長 同様に、戦争に対する歴史認識が欠如していると強く感じました。
そもそも戦争とは、お互いの国が騙し合って“情報戦"で、兵器により敵軍を無力化させ征圧するのが戦争です。
私が怒っているのは、太平洋戦争が終結しているにも関わらず、旧ソ連が非人道的な行為を行なって日本人を拘束したことです。
1945年(昭和20年)から始まった“引き揚げ作業“は、16年もの長きに及びました。
その最大の理由は、1956年(昭和31年)の“日ソ共同宣言“が調印されてから、ソ連領内にいた日本人抑留者の帰国が本格化したからです。
このような歴史的背景を、鴨田市長はじめ舞鶴市職員は知っているのでしょうか?
姉妹都市の提携にあたり一番重要な事項は、“相互理解“と“信頼を深める“ことです。
それには、リシタン地区の市長の謝罪なくして、姉妹都市の提携はあり得ないのではないでしょうか。
リシタン地区には、日本人抑留者の方々の遺骨が今なお眠っています。
“慰霊碑“もない“遺骨収集“の協力もなく、姉妹都市 提携はあり得ないです。
戦争を知らない世代が大多数を占める現在、その記憶と教訓をいかに『自分ごと』として後世に引き継ぐかが、重要な課題であることを鴨田市長は舞鶴市の市長として、自覚するべきです!
ナホトカ市にある“日本人 墓地“です
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=114691&pid=381524
伊達直人


